Empreinte de chameau🐪ラクダの足あと
🌴モーリタニア🌙砂漠を旅する🌴 No.24 🐪加藤智津子
映画:「サハラのカフェのマリカ」/「143, rue du Désert」
② 砂漠道路「トランス・サハラ・ハイウェイ2号線」
「サハラの旅 1974」は、4人の日本の若者が砂漠道路、トランス・サハラ・ハイウェイ2号線を車で旅していく本だったが、映画にも登場する。
トランス・サハラ・ハイウェイにあるカフェが舞台のドキュメンタリー映画「143番地、砂漠通り」。
日本では「サハラのカフェのマリカ」というタイトルになる。
アルジェリア人のハッセン・フェルハーニ監督の2019年の作品。

Photo:モーリタニア、アドラール州 シュームへ向かう峠途中
アドラールとは山という意味で、高地になっている。アタールから北のシュームに向かうには2つの峠を降りることになる。反対に、アルジェリアから食品を満載にして運んでくる巨大なトラックは、この峠越えをとても苦労して登る。
アルジェリアのほぼ中央部、首都アルジェから「トランス・サハラ・ハイウェイ」(アルジェリア国道1号線)を870 kmほど南下すると、大サハラの玄関口と言われるエル・メニア(Al-Menia)に着く。
そこから70km先のハイウェイ沿い(ティミムン へ分かれるロータリーの手前)にあるカフェの女主人、マリカの日々をとらえたドキュメンタリー。
「サハラの旅 1974」で、小町グループが通過した「エル・ゴレア」(*1)が、現在では「エル・メニア」と呼ばれている。
エル・メニアは西側にグランド・エルグ・オクシデンタル(西部大砂丘)が広がり、湧水に恵まれ、ナツメヤシや柑橘 類、ミネラルウォーターも生産されるオアシス都市だ。
映画で紹介される「タデマイト通り」(*2)はタデマイト高原から発する通り名のようで、その高原の西麓にエル・メニアがある。
そのエル・メニアまで、毎日、マリカは食材を仕入れに行くと言う。
マリカが住むのは、入り口以外は小さな窓しかないサハラ特有の四角い建物で、2頭の犬と愛猫、ミミも一緒だ。
すぐ前のハイウェイを車が行き交い、彼方には連続する砂丘がぼんやりと霞む。
砂漠は常に化粧パウダーのような砂が舞っているが、とりわけ、1月から3月は強風になることが多く、風が砂を巻き上げ、空の青さを覆う。
この映画は冬のサハラそのもの、ごく普通の砂漠の風景だ。
カフェのメニューは飲み物(お茶かコーヒー)とサルディン入りのオムレツだけで、30ディナールと60ディナール。客に言われるように、安い。
カフェにはさまざまな客が訪れる。常連のトラックのドライバー、バスの乗客、バイクの旅人、バックパッカー、イマーム、ツアー中のミュージシャン、、、、
ロードムービーの逆バージョンで、通りがカフェにあり、カフェへ人々がやってくる。芝居の舞台のようでもある。
客たちとの会話によって、マリカがこの場所に来ることになったできごとや、マリカを留まらせている理由には一切触れていないが、いろいろなことが徐々にわかってくる。
アルジェリアが過去20年間に経験した出来事への言及や思い出にまでおよび、マリカには家族があり、殺された娘がいたらしい。
最後にマリカがつぶやくように歌うのは、フランスの植民地時代にニューカレドニア(Nouvelle-Calédonie)へ奴隷として送られ、2度と戻ることことがなかった人たちを歌った歌のような気がする。
母に泣くなと伝えてください
追放された者よ
息子はもういない
彼はもう戻ってこない
追放された者よ
裁判にかけられた
追放された者よ
老いも若きも憲兵
追放された者よ
1年と1日で
追放された者よ
母に泣くなと伝えてください
追放された者よ
7つの扉をくぐった
追放された者よ
7つの裏側
勇敢な人たちだった
彼らは私にくれたのです
1枚の毛布と1枚のマットレスを
母に泣くなと伝えてください
私の心よ、なぜこのような嫌悪感を抱くのか ?
いつも同じスープ
その中でゴキブリが泳いでいる
母に泣くなと伝えてください
追放された者よ
(*:映画の日本語字幕と同じではない)
ニューカレドニアには先住民族がいたが、ジェームズ・クックにより『発見』され、1853年からフランスの「海外領土」になった。
当初は流刑地として、1922年まで、パ・リコミューンの共産主義者やフランスの植民地化に抵抗した「政治犯」も多く送り込まれた。そのなかに、カビール人(Kabyle)もいた。
カビール人はアルジェリア北部に住み、ベルベル語を話す最大の人口を占めている。
1864年、ニッケルの発見により流刑地は「鉱山の島」となるが、その後も、鉱山での強制労働は続いたようだ。
今ではすっかり、リゾートの島となり、エールフランスの「パリ=東京便」の幾便かは、東京からヌーメア(Nouméa) 行きとなり、ニューカレドニアでバカンスを楽しむフランス人たちはそのまま乗っていく。
アルジェリアは、あまりにもヨーロッパに近すぎた。
1830年、フランスはアルジェを征服し、1847年に全アルジェリアを支配下に置き、地中海沿いに150万人が入植、自国のように移り住んだ。その地域はカビール人の居住地と重なり、土地を没収される。当然、抵抗する。
入植者たちはそんな抵抗者たちを奴隷として、ニューカレドニアへ送り込んだ。
アルジェリアでは、ニューカレドニアは「Caledoune」といい、2度と帰れない場所のことを指す。
その後、1954年から独立戦争が続き、1962年にアルジェリアはフランスから独立する。
映画「アルジェの戦い」(*3)で、その戦いの凄さは充分なくらい伝わってくる。
独立後も、戦争があり、内戦も続く。
カビール人は中央アルジェリア政府との間でも何度か緊張が生じる。
そのなかに「ベルベル語を公用語として認めること」の要求もあった(2016年に認められた)。
さらに、1991年から2002年までのアルジェリア内戦は、国民の犠牲者を多数出した。
カビール人たちはフランスの植民地主義、中央アルジェリア政府によるアラブ化政策、産業衰退などの要因の影響を受けて、故郷を離れ、フランスやカナダへ移住している。
フランスのアルジェリア移民の多数派を形成しているのはベルベル系民族のカビール人だ。
映画の冒頭では、チュニスで生まれのカビール人で、小説家でもあるTaos Amrouche の歌が流れる。
最後に歌うマリカの歌、、、、。
ハッセン・フェルハーニ監督は「マリカの人生を重ねて歌っているのでは」と、あえて説明しない。
マリカは1994年、アルジェリアの北部から今の場所に移り住み、ひとりでカフェを開いた。
激動の時代を生きてきたはずだ。
砂漠のカフェも、時代は変わりつつある。
近くにガソリンスタンド併設のスーパーマーケット建設(*4)の話題が出てくる。
マリカが歌い終わると、往来する車はライトをつけ、ガソリンスタンドに灯りがつき、マリカのカフェに夜が訪れる。(Fin)
ずっしりと胸に迫る。
この映画は政治に、明確に関与しているわけではないが、いろいろと考えさせられる。
日本で紹介された「わたしの砂漠の小さなお店へ ようこそ」とは、ちょっと違う、重い映画だ。
トランス・サハラ・ハイウェイ、他にも「物語」があるかもしれない。
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(*1) エル・ゴレア(El Goléa)
アルジェリア独立前の名前で、独立後の数十年間は. この名称をそのまま使用していた. 現在は El Menia( المنيعة)
(*2) タデマイト通り
「ここの住所は砂漠通り143番、またはタデマイト通り、マリカの場所」と客が言う
(*3) 映画「アルジェの戦い」/「La battaglia di Algeri 」
フランスの支配下にあったアルジェリアで起こった独立戦争を描いた映画. イタリア人ジッロ・ポンテコルボ監督が、目撃者や当事者の証言、残された記録文書をもとに、戦争の実体をドキュメンタリータッチでリアルに再現した. アルジェリア市民8万人が撮影に協力. ベネチア国際映画祭金獅子賞受賞. 1966年制作
(*4) スーパーマーケット建設
スーパーマーケットは完成. その後のマリカの登場する動画では、少し悲しい気分にもなるが、現在カフェは営業中
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